大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和35年(ネ)1294号 判決

控訴人 国

訴訟代理人 河津圭一 外一名

被控訴人 近藤英子

主文

原判決を次のとおり変更する。

控訴人は被控訴人に対し金三十五万九千八百円およびこれに対する昭和三十三年六月三日から支払済みにいたるまで年五分の割合による金員を支払え。

被控訴人その余の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は「原判決中控訴人敗訴の部分を取り消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の陳述、証拠の提出、援用、認否は、原判決八枚目裏八行目「請求原因事実(一)」の下に「および(二)」を挿入し、かつ左記を附加するほか、原判決事実摘示と同一であるからそれをここに引用する。

(一)、被控訴代理人において

岐阜地方検察庁大垣支部の検察官(以下単に検察官という)は、被控訴人の犯意推定の基礎となるべき土地の境界紛争の調停がなされた時期の点で、なんらの物的証拠もなかつたのに、被疑者たる被控訴人を一度も取り調べず、即ち被控訴人の弁明を全然聞かないで被控訴人を起訴したのであるが、かかる措置はそれ自体職権の濫用であり、人権の軽視である。検察官が右のような粗漏な措置をとつたのは、当該被疑事件について公訴時効の完成が迫つていたためであるというが、さようなことは毫も検察官の過失責任を軽減させるものではない。公訴時効の制度は、一面において被疑者の利益のためにも認められているものであることは、刑事訴訟法第五十五条第一項但書が、「時効期間の初日は、時間を論じないで一日としてこれを計算する。」と規定し、一般の期間計算法の例外的な取扱をしていることに徴しても明らかである。しかるに、時効期間満了が切迫していたという事実があれば、重要な事実についての取調をしないで起訴しても、その粗漏の過失責任が宥恕され、被疑者たる被控訴人の人権がその犠牲になつてもやむをえないことになるとすれば、それは時効制度の逆用である。本件において、時効期間が切迫し、捜査の余裕がなくなるに至らしめた責任は、一に検察官に帰するものであつて、毫も被控訴人の責任ではない。従つて、もし時効期間切迫のために、捜査が不十分であることを意識しながら起訴したというのであれば、それはいわれなき責任の転嫁であり、大いなる矛盾である。要するに、検察官は、被疑者たる被控訴人の弁明を聴かなかつたため、同人の手中にあつた境界紛争につき調停のなされた時期についての決定的な物的証拠を看過して不当に被控訴人を起訴し、詐欺被告人としての汚名の下に刑事法廷に立つに至らしめたものであるから、その過失の責任は歴然たるものがある。と述べ、当審において新たに提出された乙号各証の成立を認め

(二)、控訴代理人において

新に乙第十九号ないし第二十一号証を提出し、当審証人永田敏男の証言を援用した。

理由

当裁判所の判決理由は、左記(一)ないし(六)を補充するほか原判決理由と同一であるから、それをここに引用する。

(一)  原判決十七枚目裏十一行目冒頭から同十八枚目表四行目「明らかである。」までを次のとおり改める。

三、成立に争いない甲第一号証(起訴状)乙第六ないし第十三号証、同第十七ないし第二十一号証に当審証人永田敏男の証言を総合すると、検察官が被控訴人を起訴するに至つた経緯は次のとおりであることが認められる。即ち、昭和二十九年九月六日説田周策から岐阜県大垣警察署に対し、近藤勇(被控訴人の夫)田中一市の両名を、「同人らは共謀の上、本件土地が農地ではなく、従つて買収の対象から除外されていることを知りながらその事実を秘し、右土地の所有権は説田から有里愛造を経由して近藤勇に移転したように欺き、説田から近藤に対し中間省略の方法による所有権移転登記をさせてこれを編取した。」という事実により、詐欺罪の犯人として告訴があつたので、同警察署は捜査を遂げ、昭和三十年七月十八日事件を岐阜地方検察庁大垣支部に送致した。同検察庁では所属の検事が告訴人説田周策ほか二、三の関係者から事情を聴取した後、支部長検事がその捜査を担当したが、当時被告訴人の近藤勇は東京へ転勤していたので、同年八月十二日、事件を東京地方検察庁へ移送したところ、同人の住所は横浜地方検察庁の管内である神奈川県藤沢市内であることが判明したが、東京地方検察庁においては、本件は他の被告訴人田中一市はじめ関係者の大部分が岐阜地方検察庁大垣支部管内に居住しているという理由の下に、同年十月十四日事件を右支部へ逆送した。そこで同支部長検事が再びその捜査を担当することになつたけれども、被告訴人(被疑者)近藤勇の尋問が未了であるため、同検察官は同月十五日横浜地方検察庁に対し同人の尋問を嘱託した。横浜地方検察庁検察官は右嘱託に基づき同月二十日近藤勇を取調べたところ、同人は本件土地の登記手続にはほとんど関与しておらず、むしろ妻の近藤英子(被控訴人)がよく事情を知つている旨を述べたため、同地方検察庁検察官は、同日被控訴人を被疑者として尋問した上、その調書を岐阜地方検察庁大垣支部へ送付した。そこで同支部長検事はそれらの資料と従来の捜査記録とを検討した結果、同月二十五日、本件土地は農地ではなく、国家買収の対象から除外されていたのであるから、説田周策はその所有権を喪わない。仮りに登記簿上同人から近藤勇名義に所有権移転登記がなされても、その登記が真実に合致しないだけで、真の所有者たる説田周策の所有権には影響がないから、登記申請書類に押印させただけでは詐欺罪は成立しないし、かつ被告訴人近藤勇、同田中一市の両名はほとんど事件に関係していないから犯罪の嫌疑なしという理由で木起訴処分にした上、翌二十六日告訴人たる説田周策にその旨を通知した。ところが同人は右処分に納得せず、同年十一月九日岐阜地方検察庁大垣支部に対し、被告訴人を近藤勇からその妻である被控訴人に訂正し、被控訴人および前記田中一市両名につき前同様の事実について詐欺の告訴を内容とする再調査願と題する書面を提出したので、同支部長検事はさらに関係者を呼んで事情を聴取したが、別に新しい事実も発見できなかつたので、その頃告訴人たる説田周策に対し被控訴人および田中一市を起訴しない旨を告げた。説田は右処分を不服とし、昭和三十一年四月十二日、大垣検察審査会に対し、検察官の不起訴処分は相当でないとして審査の請求をしたが、同審査会は審査の末、同年七月二十八日検察官の不起訴処分は相当である旨の議決をしたので事件は一応落着した。ところが、同年十一月二十二日に至り突然名古屋高等検察庁検事から岐阜地方検察庁大垣支部に対し、右事件の不起訴記録ならびに大垣検察審査会の議決書謄本の送付を求めてきた(ただし、名古屋高等検察庁が右事件に関与するに至つた事情は明らかでない)ので、大垣支部においては即日右記録を名古屋高等検察庁に送付したところ、昭和三十二年一月十日頃、同検察庁検事から右不起訴事件について、関係者を取調べるため出張するという連絡があつたが、さらに同月十五、六日頃になつて、こちらからは出張しないから大垣支部の方で再度捜査をするようにとの指示があり、その頃前記各記録が同支部へ返送されてきた。しかるに、右告訴事件の公訴時効は同月一九日の経過と共に完成するので、大垣支部長検事は急遽捜査を進行させる必要を認め、同月十六日安井地区農業委員会長であつた横谷裔を取り調べ、かつ電話で大垣市役所安井支所に有里愛造の死亡日時を照会すると共に、翌十七日には横谷裔、浅野精一、富田荘吉、有里せい、田中一市らを取り調べ、岐阜地方法務局大垣支局に本件土地の分筆の件を照会し、また説田周策が本件土地の買収令書を受領している事実を確かめて同人からこれを提出させて領置し、また同月十八日に富田幸子を取り調べ、岐阜地方法務局大垣支局に対し本件土地の登記関係について電話照会をする等の措置を講じた結果、同検察官は、本件土地の買収令書が所有者たる説田周策に交付されている以上、たとえそれが誤りであつても同人はそれにより本件土地の所有権を失うから、国からその売渡を受けた有里愛造はその所有権を取得し、同人からこれを買受けた近藤勇が所有権移転登記をすれば対抗要件を具備し、完全なる所有権を取得することになる、という見解の下に、被控訴人が説田を欺いて登記申請書類に押印させた行為は詐欺罪を構成するという判断に到達したので、同月十九日、その旨を名古屋高等検察庁に報告し、同庁検事の指示によつて岐阜地方検察庁検事正の指揮を仰いで協議の結果、同支部長検事は自ら被疑者近藤英子(被控訴人)を取り調べず、従つて同人の弁解を聞いておらず、また本件土地に関する買収計画書および売渡計画書の原本が訂正されているかどうかについても確かめていなかつたけれども、本件の公訴時効完成が数時間後に迫つていて、捜査期間に余裕がなかつたこと、相被疑者田中一市は当時現職の警察官で大垣警察署に勤務中であつたことなどの事情を考慮した上、とりあえず被控訴人だけを身柄不拘束のまゝ起訴し、その裁判の結果を見た上で田中一市の処分を決めることに意見が一致し、同日、被控訴人を検事認知による詐欺事件として立件し、直ちに起訴手続をとつた。以上の事実を認めることができる。而して、

(二)  原判決二十四枚目表八行目冒頭から同十一行目「苦しまざるを得ない」までを削る。

(三)  原判決二十八枚目表十一行目の「しかし」を次のとおり改める。

しかしながら、検察官が原告を起訴するに至るまでの経緯は前記三に判示したとおりであつて、説田周策告訴にかかる詐欺事件は、当初検察官も犯罪の嫌疑なしとして不起訴処分にし、検察審査会もまたその処分を相当と認めた事案であるから、その犯罪の成否は、事実的にも、法律的にも相当疑問の存するものであると認めるのほかはない。従つてその処分ことに起訴手続をとるについてはとくに慎重を期する必要があることは多言を要しないところであるが、

(四)  原判決二十九枚目表末行の「いわなければならない。」の下に以下を加える。

もつとも、検察官がいよいよ本件を起訴すると決定した当時においては、公訴時効完成が目前に迫り、捜査に十分な時間的余裕がなかつたことは前認定のとおりであるけれども、上叙のような事情の存在は毫も検察官の過失責任を軽からしめるものではない。

(五)  原判決三十枚目表五行目「宿泊料」から同六行目末尾までを次のとおり改める。

宿泊料二名分合計金三万円を支出したことを認めることができる。被控訴人は右の外に昼食代および女中チップとして合計金九千円を支出したと主張するけれども、これを認めるに足りる証拠はないから、この点に関する請求は認容できない

(六)  原判決三十一枚目表(二)を次のとおり改める。

以上のとおりであるから、被控訴人は国家賠償法第一条第一項の規定に基づき控訴人に対して合計金三十五万九千八百円の損害賠償請求権があるものというべく、被控訴人の本訴請求は右金額およびこれに対する訴状送達の翌日であることが記録上明らかな昭和三十三年六月三日から完済にいたるまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める範囲内で理由があるのでその限度でこれを認容すべきであるが、その余の部分は理由がないのでこれを棄却すべきものである。

そうだとすると、右の範囲を起え、被控訴人の本訴請求中金三十六万八千八百円およびこれに対する昭和三十三年六月三日から支払済みにいたるまで年五分の割合による金員の支払を求める部分の請求を認容した原判決は失当であるから右の限度において原判決を変更し、訴訟費用の負担につ同法第九十六条、第九十二条但書を適用して主文のとおり判決す。

(裁判官 大場茂行 町田健次 下関忠義)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例